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今日はなんの日。



以下長文です。
夏休みに入ったにも関わらず、諸々の理由で下宿に居残っている者同士、共同スペースに集まって、一分間、黙祷ささげてきました。
広島の方向いて。
やっぱ、サイレン鳴らないと変な感じ。
小学生の頃は、八時過ぎに親に叩き起こされ、布団の上で正座してお祈りしてました。そしてテレビ中継で平和式典みる。……八時からはどの局も中継しかしてないからな。
去年も、私はこの日下宿にいたんですが、ソッコー親から電話きたもん、「あんたちゃんと黙祷した?」したがな。と言うと、あっそ、と満足して終話。
今年は、居残り組に、同郷の子がおり、前々から「8:15には黙祷しようね」と約束してました、それに他の県出身の子も強制参加させた形で。

したから何、偉いの?と言われれば困るのだけど、純粋に冥福を祈り、そのあとでふっと地元を思い出す、過去を思い出す、過去を知る、現在を考える、未来を語る、というのは必要なことだと考えます。
世間(というかニッポンヒキコモリキョウカイ……ってこのネタ鮮度落ち?NHKです)では、いま戦争を伝える番組をよくやっているようですが、私は全く見れないのが残念です。盆に帰省したら見よう。

最近世界史で二次戦を勉強したので、ちょうどね。
……っていう姿勢がだめなのかなぁ、戦争=過去、のこの図式。
戦争は歴史です?大嘘。
戦争は、現在でもあるし、恐らく未来でもある。
それはこの国も含めて、です。

うちの世界史教師は反戦論者です。「もし日本が戦争を始めたら(どうなったら始めたことになるのかは難しい問題だけど)、僕は日本中で一番最後に戦争に行く」というのが口癖。
でもただむやみにラヴ&ピースを吹聴するのではなく、歴史的に見ても、価値のあった戦争なんてひとつもないのだと、戦争は全て時の権力者の利益に、そして一般民衆の不利益につながっているのだと、強く主張します。
国語教師は、対して、戦争容認(賛美?「大東亜戦争」とか言いやがっとるからな)派で、自分じゃ言わないけど多分「戦争になったら一番に飛び出してゆく」タイプ。「日本のために」。
戦争反対、九条堅持を訴える人々を笑い、国防の面から、戦争するときゃしよーぜって言う。
なかなか雄弁な彼にかかると、世界平和なんて甘っちょろすぎるかななんて思ってしまうのだけど、また世界史の時間には、平和を希求すんのは全然馬鹿げたことじゃないなと考えさせられる。


世の中、結局理想やゴール地点の問題だと思う。
○○だから○○、じゃない。
○○だと思う。という結論がさきにあって、それを支持する理由をあとから探してくるもんだ。
理由から辿っていったら、絶対わけわかんなくなる。右か左か迷ってしまう。
それだけ世界はぐじゃぐじゃだから。――という「だから。」も、結論あっての後付けです。

というわけで、理想をまず据えることが大切なのではないか。
出来る出来ないではない。叶う叶わないではない。
といって、
つまり、「叶える」ことなのだ!
なんて熱(暑)いことは言わない。
でも、始まりはいつも終わりから。

とりあえず本能的に平和をよしと思うなら、それでよいのです。
理由はいくらでも見つかります。
そしたら方法も見つかります。←これも結論。


太平洋戦争については、もちろん、日本は被害面ばかりしてたって駄目です。
南京大虐殺とか、東南アジアでの暴挙とか、従軍慰安婦とか、恐ろしいことはたくさんある。
それに、特別なこととして記録されていなくても、「戦争」である限り、毎日大量の人が殺し殺され死んでいたというのはどうやったって消えない事実です。

人はいつか死ぬんだから、別に戦争で死のうが事故で死のうが老衰で死のうが、関係ないっちゃないよ。
あんなに若くして死ななきゃ、もっと楽しいことも体験できただろうに……
というのはおかしな話だ。
どうせ死ぬんだし。どんなに楽しい人生でも、どんなに嬉しい人生でも、冥土に土産はもちこめません。

だけど、爆撃で、銃剣で、殺される直前に、その人が一瞬でも「死にたくない」と思ったのなら、その死は間違いなんじゃないか。
生きたいという本能を刺し殺すのは、人間に許された行為なのか。

じゃあ、日の丸バンザイ天皇バンザイで喜んで死んでいった人たちはどうなのか。
その死は間違いではないのか。
とすると、洗脳教育は、戦争においては死の恐怖を軽減する、画期的な方法なのか。
まぁ全てのひとが本当に万歳万歳で突っ込んでいったのかどうかは疑問なのですが……。

……こんなことを言いながら、人工臓器やiPS細胞はどうも気持ち悪い、なんていう私は矛盾している。
生きたいという気持ちを尊重するなら、医学はどこまでも発展しなければいけない。
それはつまり不老不死を容認すること?

戦争で死ぬのはだめで、事故なら仕方ない?病気ならもっと仕方ない?
その境界はどこだろう。
人がひとを死に至らしめているか否か?
じゃあどうして人は人を殺してはいけないのか……なんかそんな本ありましたね^^;


思い込むことは簡単です。
いったん自分のなかで決めてしまえば、楽。
戦争はいけない。
殺しはいけない。
生きなきゃいけない。
そう決めることは大切だ。何度も言うけど、やっぱ結論から動くもんだと思うから。
けど、決めたあと、それをどうにかして証明しないといけない。
こじつけでも、人の意見のぱくりでも、それは人それぞれだけど、ただぽかんと浮かんでるだけの「結論」はどうしても弱い。
すぐぽっきりいく。他からの軽い刺激や衝撃で。
だから、(なんちゃって)論理で武装しなきゃ。
その過程で、結論は動くかもしれないけど。
そこでは、ただし、穴はあってはいけない。とりあえず疑う。答えがすぐにはでなくても、とりあえずあげつらねて疑う。
われおもうゆえにわれあり?<違う


……なんか支離滅裂になってきた……
結局なにがいいたいのやら。
原爆記念日の話じゃなかったのか。。。。。

いやでも、なんつーか、毎年毎年、うん戦争ってこわいね。
で終了していても実がない(被爆者慰霊に実があるもないもないけど)ので。
そういう、根っこのない平和希求は、すぐに論破されてしまうから。

「情」以外のなにかで、この願いを固めることはできないものか。


でも、
そんなことしてる間に、戦場に行けよと。
そしたらろんりも糞もなく、戦争の恐怖を知れるから、と。

言われるかもしれませんね。

本来、原爆記念日、あるいは終戦記念日(8月15日というのはどうにも胡散臭い日づけだそうな)って、そういう日なのかもしれない。
頭でっかちなことは普段から考えてるだろーから、こういう日だけは心で。感じなさいと。



平和に蝉がないています。
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